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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

光の中を歩みなさい_ 「神は光であって」シリーズ3

万民ニュース   第 196 号
2371
2019. 02. 24


堂会長イ・ジェロク牧師


イエス・キリストを受け入れてみことばどおり行い、光である神と交わりを保つとき、御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちをきよめることがおできになり、私たちは神に栄光を帰す生き方ができる。


人はそれぞれ交わる程度によってその親しさも違って、愛を分かち合う程度が違って、事を遂げるのが違ってくる。まして全知全能の神と交わりを保っているなら、求めるものは何でも答えていただけるので、すべてが栄えるのだ。それなら、私たちは光である神とどのような交わりを持たなければならないだろうか。


1. 昔の信仰の人々のように神と交わりを持つには

ダビデは神を愛して恐れかしこみ、すべての事について神に全面的により頼んだ。サウル王に追われて逃げ回っている時や、戦争に出て行って戦う時も、いちいち神に伺ってそのまま行ったので、行く所はどこででも勝ち続けられたのだ(IIサム5:19〜25)。ダビデが光である神とこのような関係を築き上げることができたのは、信仰によって神に喜ばれたからである。
サムエル記第一17章を読むと、サウル王がイスラエルを治めていたとき、ペリシテの軍隊が上がって来た。ペリシテの巨大な代表戦士ゴリヤテがイスラエル軍をあざけって、神の御名をなぶっていたのに、勇気をもって立ち向かう人がいなかった。当時ダビデは少年だったが、イスラエルの全能者、 神である【主】を信じたし、この戦いは【主】の戦いであることを信じた。それで、信仰によって石五つを持って万軍の【主】の御名によって大胆にゴリヤテに近づいた。
神はダビデの投げた石がゴリヤテの額に食い込むように、すべてを働かせて益としてくださった。そうしてゴリヤテが倒れて戦いの形勢が逆転し、イスラエルが完全な勝利を収めるようになったのだ。このようにダビデは信仰が堅かったので、神のお心にかなう者として認められ、まるで父子の間で大小の事を論じるように、神とすべてをともになすことができた。
また、人が自分の友と語るように、神は顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが大胆に神の御顔を拝見することを求めたとき、神は何としてでもその願いを聞き入れようとなさった(出33:11〜23)。
出エジプト記32章を読むと、モーセがシナイ山に上って四十日間神と交わっているとき、イスラエルの民はモーセが降りて来るのに手間取っていると、その間に偶像を造って、自分たちに 先立って行く神として仕えた。これに対して神は、イスラエルの民を絶ち滅ぼす、代わりにモーセを大いなる国民としよう、と仰せられた。するとモーセは「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」と神に切にすがった(出32:32)。
モーセもまた、このように大きい愛と謙遜な心を持って(民12:3)神に喜ばれたので、光である神と深い交わりを築くことができた。私たちが光である神と交わりを保つなら、ダビデやモーセのように神の近くにいるべきであり、求めるものは何でもいただくことができる、真実な関係にならなければならない。
ところが、多くの人がみことばを頭に知識としてだけ入れておいたことを神と交わりを保っていると錯覚している。もしみことばを知っていても行わないならば、神の力を引き下ろしたり、支えられたりすることができず、祈りの答えを頂くのも遅くなるしかない。
また、肉的な忠実とともに重要なのが霊的な忠実だ、ということも知らなければならない。霊的な忠実とは、心の割礼をして、正義とあわれみと誠実を実践することを言う。<マタイ23:23>に「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」とある。
ここで「正義」とは、神からの義、すなわち、罪を捨ててみことばに聞き従っていくことを意味する。次に「あわれみ」とは、神の戒めを守りながら隣人には愛と徳をもって善だけを行うことを意味する。最後に「誠実」とは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださることとを信じて、その教えを守り行うことを意味する。まさに正義とあわれみと誠実を実践することが心の割礼をすることであり、また、律法の中ではるかに重要なものだ、ということを悟らなければならない。
「ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」とあるので、各種の礼拝に参加して、十分の一献金の生活をするなどの行いも基本的に伴うべきである。しかし、まずすべきことが何であり、その内容と形式は何か、明らかにわきまえ知らなければならない。
光である神は<レビ11:45>で「…あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」と仰せられた。イエス様は<マタイ5:48>で「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」と言っておられる。私たちも昔の信仰の人々のように光である神と交わりを保つには、心の割礼を通して聖であり完全な神に似せられ、神に喜ばれる信仰を持たなければならない。


2. 割礼の聖書的背景と心の割礼

割礼とは、生まれて八日目に男子の性器の包皮を切り取る儀式のことを言う。このような割礼を、神はアブラハムに初めて命じられ、イスラエルの民と神との間の永遠の契約のしるしとして立てられた。また、割礼に関するおきてを代々守りなさいと命じられ、割礼を受けていない男子は神の民の中から断ち切られると仰せられたので、割礼は救いと直結する重要なおきてであることがわかる(創17:9〜14)。
ところで、<ヘブル10:1>に「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、…」とある。ここで律法とは旧約のことであり、後に来るものは新約、すなわち、イエス・キリストを通した幸いな知らせを意味する。したがって、割礼は新約時代に生きている私たちにも適用されるみことばであり、これは肉的な割礼でなく、霊的な割礼として心の割礼を受けるべきことを言っている(申10:16,30:6;ローマ2:28〜29)。
<エレミヤ4:4>に「…【主】のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。…」とあるとおり、私たちの心の包皮を取り除くことがすなわち心の割礼である。聖書に「しなさい、してはならない、守りなさい、捨てなさい」とあるとおりに聞き従うことを意味している。
ところで、心の割礼は一度で終わるのではなく、聖霊を受けたからといって一瞬にしてなされるのではない。失った神のかたちを完全に回復するまで、継続的にしなければならないのだ。
まずは肉の行い、すなわち、行いとして現れるすべての罪をすみやかに断ち切らなければならない。まだ酒とタバコをやめていなければ断ち切らなければならず、憤りが多い人は憤りを捨てて柔和な人に変えられなければならない。このように行いとして現れる罪を捨てたら、次には心にある罪の性質を捨てる、すなわち、肉的なことをもっぱら考えないようにしなければならない。火のような祈りと断食で自分が努力する上に、聖霊に助けられ、神によって強くされるとき、親から受け継いだ気の中にある罪の性質まで取り出すことができる。そのようにして、からだと結びついた罪の性質、すなわち、肉そのものを根ごと引き抜いてこそ、肉の思いもなくなり、内からキリストの香りを放つことができるのだ。
次には、神の御目に悪であることを捨てなければならない。義と枠など、自分が見て正しいと感じられるが、神の御目には正しくなく、悪であることがある。たとえば、イエス様が捕えられた日の夜、ペテロが大祭司のしもべマルコスの耳を切り落とした。これは危険な状況に置かれた師を守ろうとする心から出た行動だったが、神の御目には正しくないことだった。
私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れて聖霊を受ければ、主日を完全に守ることと十分の一献金の生活、祈りの生活は当然すべき基本的なことである。さらに神と交わって深く神のわざを論じる人になるためには、何よりも神が光であられるので、私たちも光の中を歩まなければならない。
このような時にはじめが私たちをきよめるだけでなく「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」(アモ3:7)とあるとおり、神が理解を越えた大いなる事まで教えてくださるのだ。


3. 神の子どもが光の中を歩むべき理由

イエス・キリストを受け入れた神の子どもたちは主が教えてくださった祈祷文にならって、毎日「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。」(マタ6:12)と祈って生きていく。
もし自分の兄弟は赦さないのに自分の罪を赦してくださいと願うなら、これは神の御前にふさわしくない姿である。だから、イエス・キリストの血によって自分の罪が洗われることを願うなら、まず光の中を歩むべきである(Iヨハ1:7)。
また、イエス様が私たちの罪を贖ってくださったので罪の赦しは受けたが、心の根にある罪の性質は残っているので、神は心の割礼を命じられたのだ。私たちが光の中で生きていくとき、死の道から出て来て神の子どもとされる祝福を頂ける。それで、神は正しい道に行くように 愛の心から試みに会わせ、時には懲らしめを加えられたりもなさる。
それでは、イエス様の血がどのようにして私たちをすべての罪からきよめるのだろうか。<ヨハネ6:53〜54>に「…人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」とある。ここで「人の子」とはイエス様を指し、「人の子の肉」とは真理のみことばのことである(ヨハ1:1,14)。「人の子の肉を食べる」とは、聖書66巻に記された神のことばを糧とすることを意味する。また、「血を飲む」とは、みことばを心に信じて、そのまま行うことである。
すなわち、聖書66巻に記された神のことばをよく糧として実践していくと、真理が私たちの中に入って来て、栄養分として消化吸収され、すべての罪と悪はカスとして排泄される。だから真理の人になって、永遠のいのちを得ることができるのだ。
私たちが愛という真理を心に植えつけて行うほど、みことばが栄養分として吸収され、憎しみ、ねたみ、そねみの心はカスとして排泄されて愛の心になる。このような原理で、心からすべての悪を取り出して排泄するほど、きよい心に変えられる。
そうしてだんだんと御霊の人、真理の人へと変えられていく過程を、主と私たちが「互いに交わりを保つ」と言うのであり、このような交わりを通して光の中を歩む霊的な人になるのだ。

愛する聖徒の皆さん、
イエス・キリストを受け入れてみことばどおり行い、光である神と交わりを保つとき、御子イエス・キリストの血が私たちをすべての罪からきよめることがおできになる。このように光の中を歩む霊的な人になってこそ、神に栄光を帰す生き方ができる。さらに、光の中に完全にとどまるようになれば、「神の友」と呼ばれた信仰の父アブラハムのように、神と深く交わり、秘密のない間柄になるのだ。神に喜ばれる信仰を持ち、ただ光の中を歩むことで神に愛されて認められ、思う存分栄光を帰すことができるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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