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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

イエスがなぜ私たちの救い主であるのか(1)

万民ニュース   第 174 号
2897
2017. 04. 23


堂会長イ・ジェロク牧師



「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」 (使徒の働き4:12)



神は最初の人アダムを創造される前に、すでに御父、御子、御霊の三位一体の神として存在しておられた。そして時期が来て、御子の神が人となってイエス様の姿でこの地上に来られ、救い主の使命を全うしてくださった。

前号に続き、イスラエルの土地の買い戻しの法(レビ25:23〜25)にかなう救い主の資格を通して、なぜイエス様だけが私たちの救い主であると言えるのか調べてみよう。


1. イエス様は人となって来られたからである

<レビ25:25>に「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」とある。土地を売った人の親類でこそ土地を買い戻せるように、最初の人アダムの罪によって敵である悪魔の手に渡されたアダムの子孫を取り戻そうとするなら、必ずアダムの親類でなければならないということである。

アダムの親類とは、御使いや動物でなく、アダムのように霊とたましいと肉を持つ人のことを言う。それで、<第一コリント15:21〜22>に「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」とあるのだ。したがって、救い主の第一の資格条件は人でなければならないということだ。

それなら、イエス様はどのように人の親類になれるだろうか。<ピリピ2:6〜8>を読めば「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」とある。また、<ヨハネ1:14>には、イエス様について「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とある。ところで、<ヨハネ1:1>に「ことばは神であった。」とあるので、ことばは人となったとは、神が肉と骨のあるからだを持ってこの地上に来られたということである。

したがって、イエス様は人の罪を贖うために人のからだからお生まれになったし、人だったのでお休みになりもし、空腹や渇き、喜びと悲しみも感じられた。救い主の使命を果たすために十字架につけられた時は、血も流して苦しみも感じられたのだ。

歴史的にも、イエス様が人としてこの地上に来られたという確かな証拠がある。それはまさにイエス様の誕生を基点として、世界の歴史が大きく紀元前(B.C.)と紀元後(A.D.)に分けられるということである。

このように人類の歴史の基準自体がイエス様の誕生時点であることだけ見ても、イエス様は明らかに人としてこの地上に来られたことがわかる。したがって、イエス様は神の御子であり、人となってこの地上に来られた方であって、アダムの親類でなければならないという救い主の第一の資格条件を満たす方である。


2. イエス様は罪を犯したアダムの子孫ではないからである

神は人を創造されたとき、アダムとエバにいのちの種、すなわち、精子と卵子を下さって、これを通して新しいいのちが胎に宿るようになさった。このような精子や卵子の中には親の気がすべて入っているが、親の性分や性質、本性、容貌、さらには習慣についての内容までも入っている。それで、子どもは親の顔や体形はもちろん、性分や習慣も似ているのだ。

最初の人アダムが罪を犯した後には、父祖たちの罪の性質が子孫にも伝えられた。これがまさに原罪であり、すべての人は生まれてから罪の性質を受け継いで罪人になるのである。<ローマ5:12>にも「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」とある。アダムひとりの罪によって全人類に死が広がったので、アダムの子孫は全部罪人だということなのだ。もし自分が罪人ならば、他の人の罪を代わりに負ってあげることはできない。

たとえば、弟が借金をたくさんして監獄に入る身の上になったとしよう。しかし、兄も弟のように借金を負って監獄に入る身の上ならば、弟の借金を返せる力がないのだ。同じように、人の罪を贖うためには、救い主は人でなければならないが、罪人であってはならない。ところが、罪を犯したアダムの子孫は全部原罪を持つ罪人であるから、他の人の罪を贖うことはできない。

したがって、救い主の二番目の資格条件は、罪を犯したアダムの子孫であってはならないということだ。それなら、誰が人でありながらも罪人ではないというのだろうか。この世でただおひとり、人として来られた神のひとり子イエス様だけが、人でありながらも罪を犯したアダムの子孫、すなわち、罪人ではないのである。

イエス様は血肉としてはダビデの子孫で、ヨセフとマリヤが両親だが、<マタイ1:20>を読めば「…主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」とあるし、23節には「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」とある。

四福音書を通してわかるように、イエス様はヨセフの精子とマリヤの卵子を通してではなく、聖霊の力によって胎に宿られたのだ。全能の神は聖霊の力によっていくらでもイエス様をマリヤのからだに宿らせることがおできになった。そして、イエス様は単におとめマリヤのからだを借りただけで、聖霊の力によって宿られたので、原罪がない方である。

ここで一つ覚えておくべきことは、たとえおとめマリヤがイエス様をみごもったとしても、イエス様の母になれないということである。仮に科学が発達して、人の精子と卵子が結合してできた受精体を機械で十か月間養育したからといって、機械が親になれないのと同じである。

それで、聖書を読めば、イエス様がマリヤに対して「母」と言わないで「女の方」と呼んでおられる(ヨハネ2:4,19:26)。時々「イエスの母」と書いてあるところが出て来るが、これは弟子たちの立場から記したものだからである。おとめマリヤは決して拝む対象になれない。私たちが拝んで祈る対象は三位一体の神だけだということを覚えて、まことの信仰を持たれるように。次の号で救い主の資格条件について続けて説明する。

愛する聖徒の皆さん、
このようにイエス・キリストのほかには救い主としてふさわしい資格を備えた人がいないということを悟って、すみやかに信仰によって救いの確信を持ち、神の子どもとされた特権と祝福を思う存分いただくように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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